こんにちは 京都花宿のみおうです。
実はわたし、最近中国語の勉強を少しはじめました。
ほんとのほんとに少しずつ、気の向いた時だけ という気まぐれですが、
すこーしずつ、vocabularyを増やしています・・・
先生は、うちの宿直スタッフ、台湾人のツバサちゃん(通称 つーちゃん)です。
つーちゃんは日本語がペラペラなので、わたしの質問にも日本語で答えてくれる!すばらしい先生です。
文法や、発音や難しいところも、わたしのなぜなぜどうして質問攻撃にひるむことなく、さくさく教えてくれます。
そうは言えども、英語以外の言語を新たに勉強するのは、非常に大変です。
まずぶつかっている壁は、発音です。
中国語独自の、四声という、4つの種類の声の上がり下がりに加え、
アルファベットをそのまま発音しただけでは通じない、日本語には存在しない発音の多い事・・・
何回もつーちゃんに発音してもらい、口の動かし方と、出てくる音を体で覚えながら、練習してみる。
ものの。
でも次の日にはもう、発音を忘れている、ということの繰り返しです。
さらには、つーちゃんには通じても、お客様には通じなかったり、英語とはまた違った難しさを感じます。
でも、ことばを勉強するのは、楽しいです。
それが通じると、またひとしお嬉しいです。
そして、先日台湾からのお客様に、中国語で簡単なあいさつをしたところ、わたしの中国語、ちゃんと通じました。
それだけのことですが、嬉しくなりました。
この調子で、地味にレベルアップを図ります。
一ヵ月後には、どうなってるでしょうか?
更にvocabulary増を目指します :)
2012年8月26日日曜日
2012年4月5日木曜日
タムムン滞在記最終回「~アンチアメリカのタムムンが遂にアメリカへ・・・ミーナと再会」編



アメリカにだけは染まるものかという反骨精神でヨーロッパから中南米を旅して来たものの、アメリカ、特にサンフランシスコには楽しいことがそれはそれはたくさんあった。
洗練されたレゲエミュージシャンが毎週のようにライブに来るし、ライブの後のクッキーサンドアイスは格別にうまいし、車を2時間とばせば巨大なレッ ドウッドのそびえる公園でキャンプができる。金曜夜のPolk Streetには仮装したゲイがたくさんいるし、Mission地区はメキシコそのものだし、ゴールデンゲートパークにはマリファナの匂いに包まれジャンべのリズムが響き渡る。そんな日々に飽きる事は無かった。
私にとってアメリカは、まるで温かいベッドから出られない冬の朝だ。
メキシコで1年以上も洗濯機もTVもネットもない生活をしていたのが信じられないほど、文明の利器にお世話になりっ放し。食器洗いすら機械任せだ。 これではいけない。
あれは旅を始めてから2度目の夏。グアテマラのホステルの中庭で私が織物を織っていた時だった。
ヒッピーの女の子がそれを見て言った。
「それ、すごくきれい!私も絶対に、やるわ!」
これがミーナと私の出会い。
彼女はメキシコ系アメリカン。ヒッピーが多くて有名なサンタクルス大学で農学を勉強し終えたところだ。
「卒業前にサンタクルスにおいで!」と誘われたので、遊びに行くことにした。
赤いとんがり帽のノームが住んでいそうな小さな家は、小さなミーナとよく似合っていた。
まずはラム酒で再会を乾杯し、グアテマラ時代の思い出話に花を咲かせた。
当時、彼女は同じホステルにいたサイという赤毛のドレッドボーイと親密な仲だった。
「サイは私には優し過ぎたわね。彼に出会った時から終わりが来るのは見えてた、遠距離恋愛なんて私には意味がないもの。 それに私、サイみたいなスキニーな男はタイプじゃないの。手も体も、男はゴツゴツしてなきゃね! 」
メキシコに長期滞在した私にとって、彼女の両親にも興味があった。
「パパとママはティファナ(アメリカとの国境沿いにあるメキシコの街。近年は不法越境を試みるメキシコ人であふれ返っている。)から歩いて国境を越えたの。当時はアメリカの警備もそれほど厳しく無かったし、パパは何度も国境を行き来してたからルートを熟知していたみたい。
その後にメキシコの親戚もアメリカへ呼びよせて、姉と私が生まれたのよ。
家族の会話はいつもスペイン語。毎年メキシコに里帰りしてるけど、ママはもうメキシコへは帰りたく無いって言うのよ。」
彼女の話は時に、曖昧な私を代弁してくれているかのようで清清しい。
「私の荷物はいつだってせいぜい段ボール2箱。Tシャツとジーンズとパンツ、あとは本くらいよ。車は要らないから免許は取らないの。
イチゴ畑でバイトしてるけど、いつもチャリンコ通勤。地球に優しいでしょ?
だから大きい家や車を買って、ブランド服に身を包むアメリカンドリームになんて興味は無いの。
アメリカンドリームじゃなくてマイドリーム、旅こそがマイドリームね。
旅と言ってもお金はかからないのよ、旅中出会った人にお世話になったり、農園で働いたりするから。おしっこだっていっつも草むらでしてるわ。
毎日色んな人と出会って、異文化を知って、恋をして、そんな幸せな人生ってある?
2年以上も旅を続けてるあなたなら解るでしょう?
、、、、、、、できることなら一生、旅をしたいわ。」
「それから私、アメリカの医療制度(アメリカには国の医療保険はないので、個人で保険を契約する。)なんて信じてないのよ。
昔、おじいちゃんの具合が悪くなって、アメリカとメキシコを何度も往復して両国の医者に見てもらった。
それでも原因が解らなくて、3往復目にやっと、余命2ヵ月の末期がんだってわかったの。
その後の2ヵ月は毎週末おじいちゃんのために親戚みんなが集まって、マリアッチを呼んでパーティーよ。
おじいちゃん、マリアッチが大好きだったの。
お葬式の日も最初から最後までマリアッチの演奏が止む事は無かったわ。」
この話には目頭が熱くなった。ラテン人の家族愛に勝るものはない。
夕方のサンタクルスの街を歩くと、小さなゲイパレードが行なわれていた。
それにしても風が強い。年中サーフィンの聖地であるこの街ならではの潮風で私の顔はじっとりしていた。
お腹が空いたので学生向けのインド料理屋に入り、ベジタリアンカレービュッフェなるものを1人分だけ注文して、ミーナと2人でせこく分ける。店内でいきなりベリーダンスが始まったが、あれは食事中に見たいものではない。
日が沈み、ミーナはビリヤードに行こうと言い始めた。あまりのり気ではなかったけれど、付き合うことにした。
アメリカではみんなIDを携帯しているなんて知らなかった。私がせいぜい持っていたのはパスポートのコピー。
ハリウッド映画に出てきそうな大柄の黒人ガードマンに「コピーじゃ証明にならねぇ、帰りな。」とあっさり入場拒否されてしまう。
「この子、未成年じゃないわ、27歳よ。日本から私に会いにわざわざ来てくれたの(嘘)。IDをうっかり忘れただけよ。ねぇお願い、入らせて。」デカい男に立ち向かう彼女が大きく見えた。
その後、ローカルのバーならコピーでも入場できるという噂を聞いたのでトライしたら入場できた。単純なもんだ。
2ゲーム目を始めようとした時に閉店5分前コールが。じゃあ5分で勝負をつけようと思ったら、店員が私たちのキューを強引に取りあげた。
「お願い、アミーゴ。すぐに終わらせるから。この子、私とビリヤードする為に日本から来たのよ(嘘その2)。」私だったらすぐにあきらめるだろう。でも彼女はいつも刃を向けた。まるでロックシンガーのように。
帰り道、酔っぱらった彼女は多弁になり、ジグザグに歩いた。時折肩がぶつかり、私もジグザグに歩くはめになった。
家に帰ると夜の2時を過ぎていた。そろそろ寝たいと思ったが、案の定、彼女は今度は恋愛へと話を発展させた。
「愛していた彼(メキシコ人)と何もかも終わったの。他にも2人付き合ってみたけど、彼以上の人には出会えない。あの人と出会わなければ私はもっと幸せでいられた。そう思うくらい、今でも彼への想いに苦しめられるわ。
でも私はこれからもずっと旅を続けたいし、結婚に興味なんて無いし、子どもが欲しけりゃ養子をもらう。こんな考えの私が恋愛をしたって相手を傷つけるだけかしら?将来のない男女関係についてあなたはどう思う?」
彼女の頬に涙がつたった。そこには23歳の、ごく普通の女の子がいた。
アグレッシブな彼女の話は時に極端にも思えたが、大方はもっともだと思った。メキシコという故郷や家族があることが強みだし、何と言っても、16歳の時から世界を旅して来た経験が彼女の全てなのだ。
ミーナは今、アメリカで人気就職先ナンバー1と言われるNPO団体、Peace Corpに所属し、エクアドルで奉仕活動に専念している。世界の裏側で、きっとまた酔っ払って、恋でもして、べらべらおしゃべりしてるんだろうなぁ。
2012年3月23日金曜日
タムムン滞在記「~チチカカ湖上に暮らす家族に・・・出会った~」編



キューバとは打って変わって、世界最高地にある湖、チチカカ湖。
そこに浮かぶ島を巡るツアーに参加した。
最初に訪れたのはウロス島。ここは葦(トトラ)を重ねて造った大小40もの浮島で、そこに同じく葦で造った家を建て、ウル族が暮らしている。 葦の地面はスポンジのようにふかふかしていて、草原のような匂いがする。
小さな島だが、かまどや釣った魚をためておく水槽、フジモリ大統領の案によって立てられたソーラーエネルギーもあり、賢く設計されている。
葦は食用にもなるし、島の往来に用いる葦舟にもなる。 一見沈みそうな見た目だが、なかなか安定した乗り心地。
こうして各島が月に1―2度観光客を招き入れて島の説明をし、民芸品を売って生活をしている。 もちろん湖畔の街に働きに出る者もいる。
チェーンステッチのタペストリーやアクセサリー等どれも色鮮やかで見とれていたら、ウル族のおばさんに名前を尋ねられ、お互いに簡単な自己紹介を交わした。
おばさんに民芸品を勧められたが、写真を撮りに歩き回りたいと伝え、頃合を見計らってその場を離れた。
写真散策の後、「Erika! Erika!」の声に、一瞬オカンが日本から駆け付けたのかと思いきや、さっきのおばさんに完全にマークされていた。 逃げ場の無い私は葦舟のミニチュアを購入。よく見るとけっこう芸が細かくて気にいった。
次に訪れたのはなんと紀元前から人が住んでいたとされるアマンタニ島。
黒地に蛍光色の刺繍の入ったマントを纏った村人たちは、話している最中も歩いている最中も編み物をしたり糸を紡いだりして手を休ませることはない。
そんな働き者の1人、マリアさん宅にホームステイすることになる。
マリアさんの家にはモザイクの中庭と小さなかまど、水の出ないトイレがあった。
住民の平均身長が低いからか、寝室の入り口は140cmほどで、繰り返し頭をぶつけた。 昼食にはマリアさんのママに南瓜のスープとチーズをのせたふかし芋(と言っても日本では見たことの無い類いの芋)とハーブティーを頂いた。
自然の優しい味がして、日本人の口に良く合うものだった。
食後、水の出ないトイレにお土産を残さない為、迫り来る便意と悪戦苦闘したのは言うまでもない。
街灯のほとんどない島に夜が訪れた。
マリアさんに民族衣装を着せてもらい、ダンスパーティーに出かける。
他のツアー参加者(全員西欧人)よりも私の方が似合っていると心の中で自負していた。 参加者全員で手を繋いで輪になって、踊ったり走ったり、標高3855mの薄い酸素では息が上がってしまった。
懐中電灯で足元を照らし、帰宅。岩のように重い4重の毛布の下で眠りに就こうとしたが、いかんせん、寒い。質素な毛布は何枚重ねたって寒さは変わらない。
そんな中、こんなことを思い出してた。
ボリビアのウユニ塩湖ツアーに参加した際の、無口なガイドのおっちゃん。
欧米からの参加者がスペイン語を分からないのをいいことに、私にこっそりこんな話をした。
「僕はかれこれ15年この仕事をしてるけど、経験上、日本人が1番我慢強いし教養があると思うよ。それに比べてイスラエル人とフランス人は要求ばっかり。我慢が足りないんだ。ここには温水も舗装道路も無いけど、ここの人たちはこうして暮らしてるんだよ。」
おっしゃる通りである。現地の人が水汲みに出たり、限られたエネルギーで生活をしている真横でホットシャワーのあるホテルでじゃんじゃんエネルギーを消費するなんて、そんな滑稽な旅は旅では無い。
重たい毛布もご愛嬌。消えるように眠りに就いた。
2012年3月8日木曜日
タムムン滞在記「~カリブ海に浮かぶ赤い島の人々の暮らしに・・・出会った~」編





カリブ海に浮かぶ赤い島、キューバ。
1959年の革命戦争以来50年、様々な問題を抱えながらも独自のスタイルを貫く社会主義国である。
首都ハバナの、まるで地方空港のような小さな空港を一歩出ると、亜熱帯の湿気がいっぺんに体にまとわりついた。
この感じ、沖縄がふとよみがえる。
旧市街を歩くと、それはそれはスタイルが良くて元気な女の子たちが目に留まる。
マイクロミニのスカートからまっすぐ伸びた細い足を出し、クルクルやチリチリのヘアスタイル。
かっこいい!の一言に尽きる。
10歳くらいの女の子も、お姉さんを見習ってか、おっぱいが強調されるように胸元を気にしているのが可愛らしい。
キューバには外国人観光客用のCUCと、キューバ人が使うPESOという2種類のお金がある。
その物価の差たるや非常に大きく、キューバを旅行した友人の勧めもあって、できる限りPESOで生活してみることにした。
お菓子屋さんに並び、コーヒーロールを2つ(3PESO=$0.15USD)買うと、次の瞬間、はいと手の上にのっけられた。
袋も無し、紙ナプキンも無し。日本ならそれに加えてフォークとドライアイスと上等な手提げまでくれるところだ。
回りのキューバ人に目を向けてみると、子どももおじさんもみんな袋持参である。
これにはとても感動!!!
袋だってお金であり、資源なのだ。(露店で売られている飲物もガラスコップで出されるので、店頭で飲みきらなくてはならない。)
店は与えて当然、客はもらって当然という考え方が覆された瞬間だった。
コーヒーロールでベタベタになった指を舐めながら、物が無い故に物を大切にする素晴らしさを改めて感じていた。
改めてというのは、ちょうど2年前この旅を始めた頃にスペインの農家でアンチ物質主義の生活を送り、心底それに同意した私。 (タムムン滞在記「~カナリア諸島、自給自足の楽園に・・・・・・出会った~編」)
以来、自分なりにそれを貫いてきたつもりでいた。
それでもやっぱりアメリカのプロパガンダをまんまと受け入れたメキシコに住んでいると、そんな波に少なからず流されていた自分にキューバで気が付いたからだ。
観光客の多い通りを離れるとそこは住宅街。
木の棒と何かを丸めた球を使って路上で野球をしている子どもたちがたくさんいる。
子どもって何でもおもちゃにしてしまうのだから天才だ。
お母さんたちは2階のバルコニーで洗濯物を干していて、時折その下を通る私に水がかかる。
路上に机を出してドミノに熱中するおじさんたち、女一人で歩く私を冷やかしてくる男たち、窓からもれる音の割れたルンバ、毛並みの悪い野良犬、生ゴミと汗と犬の糞が交じり合った匂い、、、
好奇心の赴くがままに歩いていると、とうとう道に迷ってしまった。
立ち話中のお兄さんに道を尋ねる。
私が日本人と知った彼に
「冗談でしょ?君、キューバ人みたい。」といつものセリフを言われる。
どこへ行っても日本人に見えないどころか、現地化しているのだ。
「君の国の野球は世界一!」と言ってくれたので、
「キューバも強いよ!」と返すと、
「そう、強いんだよ。ただ僕らの問題は、、、怠け者なんだ。」と正直に打ち明けたのには笑った。
翌日、サンダル型に焼けた足で今日もまた散策を始めると、パンのいい匂い。
コッペパンだけの店で、みんなパンを受け取った後に持参の帳面にチェックをもらっている。
どうやらキューバ国民は生活必需品をとても安く買えるらしい。
「2つだけ、売ってくれますか?」と尋ねると、2PESO(=$0.08USD)で、勿論また手の上にのっけてくれた。
今度こそは持参のジップロックにそれを入れ、ちぎって食べながら、また歩く。
偶然にも私の旅行期間中に第10回ハバナビエンナーレが行われていて、数々のコンテンポラリーアートを観ることができた。
世界中のアーティストが参加していたのだが、キューバでの開催だけあり、やはりアンチグローバリズムを取り扱った作品が多い。
マクドナルドを皮肉ったアート、アフガン女性解放アート、国際企業の社長を嘲笑したアート等、どれも明快である。
こういったメッセージ性の強いアートを見たとき、アートは世界を動かせるといつも思う。
2012年2月14日火曜日
タムムン滞在記 「~グアテマラのホステルで・・・働いた~」編






グアテマラのアンティグアに着いて、3日。
水にインクを垂らしたみたいに、この町にどんどん馴染んでいる。
この町のホステルでフリアコを始めた。
ベッドメイキングや掃除をするものだろうと思い、荒れ性の私はゴム手袋持参でグアテマラへ来たのだが、仕事はゲストの朝食オーダーとサーブだけだった。
それを3時間と、あとの2時間は座って店番しておくだけ。スウドクをしながら美味しいブランチを頂いている。
欧米人が泊まりに来る気さくなホステルなので、仕事中の飲酒・喫煙・雑談も全く問題なし。
オージーとブリテッシュのフリアコ君が仕事内容を説明してくれたが、なまりがきつく、全く聞き取ることが出来なかった。
英語といえば、この宿ではスタッフも客もみんな英語で会話をしているのだが、グアテマラに来てまで全てを英語で済ませる彼らの行動に時折、疑問を抱く。
なので、私はあえて「Buenosdias!(おはよ!)」とスペイン語で挨拶をする。
そうすると何人かは私をグアテマラ人と思い込み、たどたどしいスペイン語で朝食をオーダーしてくれる。
その瞬間、少し嬉しくなる。
アメリカ人とアラブ人とか、アラブ人とユダヤ人とか、国同士では仲が良く無いけれど、同じテーブルで朝食を頂くともう、友達。
旅の情報交換をしたり、身の上話をして楽しそう。
朝の陽をめいっぱい含んだ食堂で、そんな風景を見るのが好きだった。
世界中の旅人と遊んだり、グアテマラ織りを習ったりしているうちに、フリアコ期間1ヶ月が終了。
フリアコ仲間や長期ステイのゲストとは寄宿舎生活をしている感覚だったので、別れが名残惜しかった。
2012年2月9日木曜日
タムムン滞在記 「~メキシコ チアパス州の奇祭に・・・出くわした~」編
メキシコの中で一番先住民が多く、貧しい農民が多いメキシコ南東部のチアパス州を旅していた時、先住民の小さな村、シナカンタンのサンセバスチャン祭に出くわした。
ここの村人は独自の言語を話し、ゴージャスな花の刺繍の入ったロイヤルブルーの民族衣装を着ている。
みんな背が低く、男性が155センチ・女性が145センチくらい。
シャイなのか、観光客の私を興味深気に見る割には、目が合うと目を反らされる。スペイン語がわかる人もあまりいないようだ。

まずは教会へ入った。
床一面に松の葉が敷き詰められ、それらとお香が混じり合った不思議な臭いが充満している。
村人はそこに膝まずき、聖人像に向かって熱心に祈りを捧げている。
ここにはキリスト教(侵略したスペイン人によって改宗させられたので)と、それ以前から村人が大切にして来た土着の宗教が融合した信仰があるのだ。
広場には露店がたくさん出ていて、揚げバナナとパインティー(温かいシロップにパイナップルが入った飲み物)を試した。 宿で知り合ったカナダ人のロバートは「これうめぇー」とパインティーをおかわりしていたけれど、パイン飴を溶かしたような甘さは私には合わなかった。
それからだ。未だかつて見たことのない光景に出くわしたのは。
まずジャガーの気ぐるみを着た3人の男が木に登り、下に居るイタチのはく製を持った10人くらいの男たちがそのジャガーにイタチを投げたり、イタチでつっ突いたりしている。
コントなのかそれとも何か深い意味があるのか理解に苦しんだが、これが1日の間に5回くらい繰り返され、その度に空を飛び交うイタチのはく製が哀れで笑えた。
次に音楽と爆竹の音がするの方へ行くと、これまた面白い光景が。
ねずみ花火がいーっぱい付いたものを頭上に担いだ男を筆頭に、ルチャリブレのマスクをかぶってピエロのようなつなぎを着た子どもたちが、飛び跳ねながらパレードをしている。
その中に、飛び散った火の粉を大きなハッパで消しながら必死で群れについて行く小さな子がいて、その懸命な動きが愛らしかった。
それにしてもこの子たちはタフだ。ねずみ花火が終わると少し休憩し、また音楽に合わせてパレードを繰り返している。
あたりが暗くなってくると、爆竹とねずみ花火で作られた3メートルくらいの塔へ点火が始まった。
下から上に次から次に引火していった爆竹が鳴り、風車のようにねずみ花火が回っている。
ロバートがそれを「サイケデリックジャングルジム!」と呼んだのがおかしかった。
夜になるとステージでメキシカンバンドが演奏を始め、村人や近隣から遊びに来ている人たちが踊り始めた。 若いカップルたちも恥ずかしそうに向かい合って体を前後に揺らしている。
ここの村人は日本人よりも遥かに表情に乏しく、楽しいのか退屈なのか読み取ることが困難だが、踊っている彼らを見てやっと、楽しんでいるんだということがわかった。
ロバートが185センチ以上ある体を村人の群れにうずめて踊り始めたので、私も加わった。
彼らの言葉も感情も理解はできないけれど、なんだか少しだけ、ひとつになれた気がした瞬間だった。
あらゆるメディアによって世界の情報が簡単に手に入るようになった今日でも、ここの村人たちは昔ながらの生活を続けている。
職を求め街へ出て、物質文化に触れた者も、必ず故郷の仲間や祭を大切にし続け、帰ってくる。
生まれ育った土地の言葉や味は体に染み付いた愛着のあるもので、彼らのよりどころなのだ。
ここの村人は独自の言語を話し、ゴージャスな花の刺繍の入ったロイヤルブルーの民族衣装を着ている。
みんな背が低く、男性が155センチ・女性が145センチくらい。
シャイなのか、観光客の私を興味深気に見る割には、目が合うと目を反らされる。スペイン語がわかる人もあまりいないようだ。
まずは教会へ入った。
床一面に松の葉が敷き詰められ、それらとお香が混じり合った不思議な臭いが充満している。
村人はそこに膝まずき、聖人像に向かって熱心に祈りを捧げている。
ここにはキリスト教(侵略したスペイン人によって改宗させられたので)と、それ以前から村人が大切にして来た土着の宗教が融合した信仰があるのだ。
広場には露店がたくさん出ていて、揚げバナナとパインティー(温かいシロップにパイナップルが入った飲み物)を試した。 宿で知り合ったカナダ人のロバートは「これうめぇー」とパインティーをおかわりしていたけれど、パイン飴を溶かしたような甘さは私には合わなかった。
それからだ。未だかつて見たことのない光景に出くわしたのは。
まずジャガーの気ぐるみを着た3人の男が木に登り、下に居るイタチのはく製を持った10人くらいの男たちがそのジャガーにイタチを投げたり、イタチでつっ突いたりしている。
コントなのかそれとも何か深い意味があるのか理解に苦しんだが、これが1日の間に5回くらい繰り返され、その度に空を飛び交うイタチのはく製が哀れで笑えた。
次に音楽と爆竹の音がするの方へ行くと、これまた面白い光景が。
ねずみ花火がいーっぱい付いたものを頭上に担いだ男を筆頭に、ルチャリブレのマスクをかぶってピエロのようなつなぎを着た子どもたちが、飛び跳ねながらパレードをしている。
その中に、飛び散った火の粉を大きなハッパで消しながら必死で群れについて行く小さな子がいて、その懸命な動きが愛らしかった。
それにしてもこの子たちはタフだ。ねずみ花火が終わると少し休憩し、また音楽に合わせてパレードを繰り返している。
あたりが暗くなってくると、爆竹とねずみ花火で作られた3メートルくらいの塔へ点火が始まった。
下から上に次から次に引火していった爆竹が鳴り、風車のようにねずみ花火が回っている。
ロバートがそれを「サイケデリックジャングルジム!」と呼んだのがおかしかった。
夜になるとステージでメキシカンバンドが演奏を始め、村人や近隣から遊びに来ている人たちが踊り始めた。 若いカップルたちも恥ずかしそうに向かい合って体を前後に揺らしている。
ここの村人は日本人よりも遥かに表情に乏しく、楽しいのか退屈なのか読み取ることが困難だが、踊っている彼らを見てやっと、楽しんでいるんだということがわかった。
ロバートが185センチ以上ある体を村人の群れにうずめて踊り始めたので、私も加わった。
彼らの言葉も感情も理解はできないけれど、なんだか少しだけ、ひとつになれた気がした瞬間だった。
あらゆるメディアによって世界の情報が簡単に手に入るようになった今日でも、ここの村人たちは昔ながらの生活を続けている。
職を求め街へ出て、物質文化に触れた者も、必ず故郷の仲間や祭を大切にし続け、帰ってくる。
生まれ育った土地の言葉や味は体に染み付いた愛着のあるもので、彼らのよりどころなのだ。
登録:
投稿 (Atom)